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観光の四方山話

 横手城は、その昔朝倉城と呼ばれ、仙北三郡を領していた小野寺氏の居城でだった。天文・弘治年間に屋敷町を割り、町内をつくり攻守に備え、横手川を外濠とした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、小野寺義道は上杉景勝と通じたとみなされ改易となった。慶長7年(1602年)に佐竹氏の久保田藩の属城となり、元和6年(1620年)には幕府の一国一城令により久保田藩の多くがされたが、佐竹義宣の働きにより横手城は生き残った。また横手城は、元和8年(1622年)の宇都宮城釣天井事件で流罪になり、元幕府年寄本田正純が晩年を過ごした。幕末から明治にかけたの戊辰戦争では、佐竹氏は官軍(新政府)に与したため、仙台藩と庄内藩の攻撃を受け落城した。現在の天守閣は昭和40年(1965年)に復元したもので、今日では秋田の観光名称となり、秋田に観光で訪れる観光客には好評。

 男鹿半島はその昔、日本海に浮かぶ火山島だった。それが長い間の隆起と川が運ぶ流砂によって、 本州と陸続きになったと云われている。温泉の歴史は古く、征夷大将軍・坂上田村麿が東征の際、湯の湧くのを発見し兵を休めたのが始まり。また江戸時代の温泉番付にも小鹿嶋(おがしま)の名で東の小結にランクされている。明治中期から大正にかけては石山鉱山の石灰岩の採掘現場として活況を呈していた時代があった。その頃の利用者は鉱山作業員や村人がほとんどで、その呼び名も石山温泉と呼ばれており、温泉地としては隣の湯本温泉の名声が高かった時代でもあった。やがて鉱物の採掘も寂れ観光開発の機運が高まり、昭和36年(1961年)に、男鹿市湯本地区の温泉旅館が、男鹿温泉郷協同組合を設立し秋田県の観光地として親しまれるようになった。

 秋田県と岩手県の県境に位置し、田沢湖高原の乳頭山麓に点在する秘湯が乳頭温泉郷。鶴の湯、蟹場、孫六、黒湯、妙乃湯、大釜、田沢湖高原(乳頭)、一本松と泉質がそれぞれ異なる八つの温泉からなっており、秋田県を代表する観光地でもある。なかでも鶴の湯温泉は最も古い歴史を誇り、元禄元年(1688年)あたりから湯宿としての記録が残っており、また茅葺き屋根の本陣は二代目秋田藩主の佐竹義隆公が湯治に訪れた際に、警護の家人たちがが詰めていた建物で、今では鶴の湯をシンボル的な建築物である。また他の温泉は4つの源泉が整っており効能や泉質もバラエティに富み、温泉三昧を堪能できる。各温泉を1回ずつ入浴できる乳頭温泉湯めぐり帖を使っての湯巡りが観光客にも好評で、観光の後の入浴も大評判。

 奥州の雄・藤原氏の初代清衡生誕の地であり、清衡が平泉へ移り住むまで暮らした所で、また平和都市平泉の構想を思案した地。それが奥州市江刺に歴史公園えさし藤原の郷。約20haの広大なスケールで、厳密な時代考証に基づいた120棟余りの歴史的建造物を再現し、見事に蘇った園内。平成5年(1993年)のNHK大河ドラマ炎立つの為に造られた大規模オープンセットで、撮影終了後も歴史公園として整備された。施設側の公表によれば総面積6万5百坪。園内の一部施設で建造過程を記録した当時のVTRが流されている事もある。平安時代のテーマパークで県内外の観光客が訪れている、この界隈随一の観光名勝。大型観光バスの駐車場完備。

 三陸海岸南部、岩手県大船市末崎半島に位置し、黒の碁石を敷いたような海岸が碁石海岸。リアス式海岸の風景と海岸沿いには、穴通磯、巾着岩、雷岩と乱暴谷などや、代島、碁石岬、恵比寿浜や碁石浜まで約3kmも続く美しい海岸線を見せる観光地。なかでも穴通磯は碁石海岸を代表する絶景スポット。波の侵食作用により、大きな洞門が3つも開き、その姿はまさに自然の造形美。小型観光遊覧船でその穴をくぐることもできる。数10mの切り立った岸壁に、激しく砕け散る白波。心地良い潮騒に耳を傾けながら碁石海岸の遊歩道を進んでいくと、まばゆいばかりの白亜の碁石埼灯台に突き当たる。碁石岬の先端は、北緯38度50分、東経141度44分。高さ10.5mから沖合い32kmまで光を届け、訪れた観光客に感動を与えている。岩手県を訪れたなら一度は訪れたい観光名勝。

 陸中海岸を代表する観光地。約5200万年前の古大三紀に形成されており、天保年間(1681年~1683年)に、宮古山常安寺七世の霊鏡和尚(享保12年・1727年没)が、さながら極楽浄土のごとしと感嘆したことから浄土ヶ浜と名づけられた。鋭く尖った白い流紋岩が林立し、それぞれ違った表情を見せて海岸を彩っている。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。入り江を形成する岩塊の裏側には、太平洋の浸食を受け、入り江側とは対照的に男性的な景観が見られる。これらは剣の山や賽の河原、血の池などと同じ東北地方に位置する恐山の地名呼称と共通している。平成18年(2006年)に日本の快水浴場百選に、平成24年(2012年)に国指定名勝に指定され、岩手県に訪れて観光客の観光ルートの欠かせない存在。

 鳥海火山脈に属する休火山で、青森県内一高い山が岩木山。山頂部は岩木山、鳥海山、厳鬼山の3つの峰で形成され、美しい姿から津軽富士とも呼ばれ、津軽平野のどこからでも見ることができる。独立峰岩木山は青森県の主峰で、標高1,625m。一番大きかった噴火は天明3年(1783年)では、新火口を形成して周囲に火山灰を降らせ、天明の大飢餓の要因となった。昭和50年(1975年)の噴火では、赤倉沢で活発な噴気活動を観測。同年に国定公園に指定され、日本百山及び新日本百山にも指定されている。また動植物も豊富で、登山や観光客を楽しませている。特に、東北を代表する名花ミチノクコザクラの原産地として知られており、津軽を代表する観光地でもある。

 津軽の統一を成し遂げた津軽為信が、慶長8年(1603年)に計画し、二代藩主の信枚が慶長15年(1610年)に着手し、翌16年に完成。以後、弘前藩4万7千石の居城として、廃藩に到るまでの260年間、津軽藩政の中心地として使用された。弘前城は、東西約600m、南北約1,000m、面積約50haの中に、三重の濠と土塁に囲まれた6つの郭から構成されている。城内には天守閣、櫓3棟、城門5棟が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。城跡は築城当初の形態が残されており、昭和27年(1952年)には国の史跡として指定され、司馬遼太郎の街道を行く- 北のまほろばで、弘前城を日本七名城の一つと紹介している。今日では弘前の重要な観光名勝で、多くの観光客が訪れる。また桜の季節は有名で全国に知られており観光をかねての人も少なくない。

 夏に行われる東北有数の祭りで、毎年述べ300万人を超える観光客が訪れている。その起源は奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した七夕祭と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送りなどの行事が一体化して、紙と竹、ローソクを使用した灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。藩政時代や明治時代には大型の灯籠を担いで練り歩く行為にはしばしば禁止された。戦後は企業ねぶたの運行が主体となり、観光の側面が強くなった。昭和30年代に北川敬三が、針金を用いて指を1本ずつ作ったり、複雑な造作のねぶたを作ったことでねぶた界に革命が起こる。またロウソクだった明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ明るく輝かせた。後に北川はねぶたの神様と呼ばれた。昭和55年(1980年)には国の重要無形民族文化材に指定され、全国に知れ渡るイベントとなり、大勢の観光客に魅了している。

 十和田湖から太平洋にそそぐ、十和田湖畔の子ノ口から焼山まで流れる奥入瀬川の14kmを云う。日本を代表する観光地で、この渓流美は噴火による土砂によって形成され、時代を重ねるとともに周りの自然木に包まれながら美しく姿を変えてきた。十和田湖への魚の遡上を阻止してきた、魚止めの滝になっている銚子大滝をはじめ、阿修羅の流れ、雲井の滝など多くの景勝地もあり、瀑布街道と呼ばれている。渓流沿いには車道や遊歩道も整備され、特に新緑や紅葉のシーズンには観光客も多く訪れている。昭和3年(1928年)には十和田湖とともに名勝及び天然記念物にして。昭和11年(1936年)には、十和田八幡平国立公園に指定。昭和27年(1952年)には特別名勝に格上げになった。大型観光バスで周遊する観光客も少なくない。

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