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観光の四方山話

 寛文11年(1671年)、川越藩城主の阿部正春が時刻を知らせるため鐘楼を造ったが、火災で亀裂が生じた。享保5年(1720年)に、当時の藩主永井直信が改鋳した。3層構造で高さ182cm、直径76cm、重さ750kgの鐘は大判20枚が入っていると云われている。現在の鐘楼は明治26年(1893年)の川越大火で鐘楼もろとも焼失したため、翌年に再建されたもので、全長2.23m、龍頭のな長さ40㎝、最大外径82㎝、同内径66㎝、重量731.25kg(195貫)。維新の動乱期を除いて朝の6時、正午、15時、18時の1日4回川越の街に独特の音色を響かせ、川越のシンボルとなっているが、観光の見所として全国から大勢の観光客が訪れている。

 明治政府が日本の近代化を図るため、明治5年(1872年)が最初に設置した模範器械製糸場が富岡製糸場だった。ペリーが来航した寛永6年(1853年)に、鎖国を変えた日本は外国と貿易を始めた。当時の輸出品はおもに生糸で、輸出の急増で需要が高まった。しかし粗製濫造問題がおき日本の生糸の評判が下がった。明治維新後、政府は産業や科学技術の近代化を進めた。そのための資金を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的と考え、日本の製糸業の近代化を進めた。群馬県の富岡市周辺に立地が選ばれた理由は、富岡周辺が生糸の原料となるカイコの飼育が盛んだったのが理由だった。平成2年(2014年)に世界遺産に選ばれ観光客が増えた。群馬の新しい観光スポットとして脚光をあびている。

 天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際、流れ出た溶岩が固まり、奇形な岩造り出した。その広さは幅3km、長さ12km、 その中には2.7キロの遊歩道があ完備されている。鬼押出しの溶岩は、普通の溶岩と考えられていたが、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。惣門より表参道を散策しながら観音堂へ行く、その途中には水盤舎、炎観音、鐘楼がある。浅間山観音堂は、東叡山観永寺伝来の秘仏である聖観世音菩薩を祀っている。昭和33年(1958年)に開創し、天明の大爆発の霊を供養している。 昭和42年(1967年)には浅間火山博物館が開館し、鬼押出しや火山の紹介をしている。平成5年(1993年)にリニューアルオープンした。浅間山を目的の人は観光気分で立ち寄るじとも多く、群馬の観光スポットになっている。

 茨城県牛久市にあるブロンズ製の大仏立像が牛久大仏。平成4年(1992年)に完成し、全高120m(像高100m、台座20m)を誇り、奈良の大仏(像高14.98m)やニューヨークの自由の女神より高く、ブロンズ製人型建造物ではギネスにも世界一と登録されている。尚、人型建造物ではミャンマーのレイチュン・セッチャ大仏が世界最大と云われているが、これはギネス未登録。これを建造したのは、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺で、正式名称は牛久阿弥陀大佛だが茨城の観光名勝になっている。浄土真宗東本願寺派の霊園の牛久浄苑のエリア内にあり、体内にはエレベーターで拝観でき、観光客にも人気のスポット。

 日光東照宮は江戸幕府初代将軍の徳川家康を神格化した東照大権現を祀る神社で日本全国の東照宮の総本社で、正式名称は地名がつかない東照宮である。現在の社殿群のほとんどは、鎮座から20年後の寛永13年(1636年)に、三代将軍家光が寛永の大造替で建て替えたもの。その費用は金56万8千両、銀百貫、米千石を擁し、1年5ヶ月の歳月をかけ完成させた。境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が建ち並び、全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られ、その豪華絢爛な美しさは圧巻。平成11年(1999年)には世界文化遺産に登録され、ますます修学旅行や観光で訪れる人が増え、栃木県はもとより日本を代表する観光スポットである。

 茨城県常陸太田市と大子町にまたがる竜神峡に架かる竜神大吊橋は、観光用の歩行者専用有料橋。平成6年(1994年)の開通以来、毎年多くの観光客が訪れる観光スポットで、平成13年(2001年)にリニューアルし、橋の長さは375m、地上高100mの規模を誇り、歩行者用の吊り橋としては日本でも有数。また橋上から望む八溝・阿武隈山系の山並みや、橋の中ほどに設置されたアクリルの透過板から見下ろす竜神ダムの湖面も絶景。奥久慈県立自然公園に位置しハイキングコースにもなっている。竜神峡は紅葉の名所としても有名で、竜神大吊橋から紅く染まった紅葉を眺める人で賑わう。茨城に行った時は一度は訪れたい観光スポットでもある。

 新潟市のシンボル、そしてランドマークとして萬代橋は、信濃川に架かる六連アーチの橋で、萬代(よろずよ)まで新潟の発展に尽くすことを願って命名された。明治19年(1886年)に竣工した木造の初代萬代橋は明治41年(1908年)に大火で類焼。二代目萬代橋は明治42年(1909年)に復元。現在の鉄筋コンクリートの三代目は昭和4年(1929年)に完成し、鉄筋コンクリートは橋長306.9m、橋幅22.0m規模を誇り、昭和39年(1964年)の大地震にも耐えた堅牢な構造をしている。平成14年(2002年)に土木学会選奨土木遺産に認定された。平成16年(2004年)に国の重要文化財に指定され、万代橋から建設から表記されてた萬代橋に復した。現在は観光面でも新潟を代表する観光名所になっている。

 天正17年(1589年)に、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ばされ、佐渡は上杉領となったが、佐渡金山と称される金脈は未発見だった。上杉が米沢に配置転換された慶長6年(1601年)に、山向こうの鶴子銀山の山師3人によって金山が発見され、それ以来江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代初期の最盛期には、年間で金が400kg・銀が40屯以上採掘され、当時としては世界最大の金山だった。鉱山の労働者に対する給与水準も高く、近隣の町は多いに栄えたが、江戸時代後期には無宿人や罪人が強制連行され、過酷な労働を強いられた。現在は金の価格と労働賃金がつりあわなく、採掘を中止して観光施設となっている。坑道の総延長は実に約400kmに及ぶが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されている。採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されており、佐渡の観光には欠かせない存在。

 至徳元年(1384年)に葦名氏七代直盛が黒川城を築いたのが発祥で、天正17年(1589年)に伊達政宗が葦名義広を制圧し会津を領する。しかし翌年豊臣秀吉に怒りをかい召し上げられ為、蒲生氏郷が入封し、黒川城を大改修して鶴ヶ城と改称、城下を若松と名づけた。その後、上杉謙信の養嗣子上杉景勝(1555年-1623年)が、豊臣政権の五大老に列し会津に転封。関ケ原の戦いに西軍に呼応し、家康の打倒を図ったが敗戦して米沢へ移封。寛永20年(1643年)には保科正之が入城。三代藩主正容が松平氏を称し、その容保は京都守護職に任ぜられ公武合体を推進。意に反して鳥羽伏見の戦いで朝敵とされ、会津戦争に突入。1ヶ月の篭城に耐えたが開城後降伏。現在の天守閣は昭和40年(1965年)の再建し、会津若松のシンボルとして観光にも寄与している。平成16年(2004年)に天守閣内部をリニューアル。平成23年(2011年)に全国でも稀な赤瓦の天守閣へと生まれり、今日では観光客はもちろん修学旅行や団体客が観光に訪れている。

 江戸時代にタイムスリップしかかのような街並みが、今も残る大内宿。下野街道と呼ばれ、当時は会津と日光を結ぶ重要な街道で、その両脇には茅葺きの民家が軒を並べ、江戸へ向かう大名や旅人の宿場として重要な役割を果たしてきた。また30軒以上の茅葺きの民家が並ぶ様子は極めて珍しく、寄棟造りの建物が道路と直角に整然と並べられているも特徴。現在も100万人以上の観光客が訪れ賑わいを見せている。昭和56年(1951年)重要伝統的建造物保存地区として選定され、全国の観光客から脚光を浴びている。

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