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観光の四方山話

 約1,200種類、30,000点もの海や川の生物を、飼育展示する鳥羽水族館。館内の通路は観覧順序を無くした自由通路となっており、通路全長は約1.5km。水族館の歴史としては比較的古く、ミキモト真珠島を訪れる観光客が、対岸の丸幸水産の生け簀を帰りに見学したことが始まりだった。昭和30年(1955年)に、日本で26番目の水族館をオープン。昭和31年(1956年)に鳥羽水族館の名称になった。オープン以来、多くの観光客や家族連れが訪れ、通算5,000万人を越え、全国最多入館者を達成。人気があるのは、日本唯一の人魚伝説のモデルといわれるジュゴンの飼育。またスナメリ、ラッコ、カピバラなどのアイドルも多く、毎日開催のアシカ、セイウチのショーは、ダイナミックでコミカルな演技は修学旅行生や観光客にも好評。大型観光バスの駐車場も完備。

 伊賀と大和の国境を流れる滝川の上流、香落渓に続く4kmに及ぶ渓谷に連なり、美しい大自然の芸術を作り出している赤目四十八滝。地名の赤目の由来は、役行者が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出逢ったと云い伝えがある一方、忍者の修行場だったとも云われている。赤目の神秘的な自然は、日本の滝百選や森林浴の森百選、そして遊歩百選にも選ばれている。
渓谷とその周辺は野生動物や植生の宝庫としても知られ、なかでも世界最大級のオオサンショウウオの生息地でも知られ、秋には関西や東海方面から大勢の観光客で賑わう。数多い三重の観光スポットのなかでも一押しの名勝。

 近世城郭として上野城が築かれたのは、天正13年(1585年)に大和郡山から移封された筒井定次が、三層の天守を築いたのが始まりだった。慶長13年(1608年)に徳川家康の信任厚い藤堂高虎に、伊勢国津藩(22万石)の藩主に着任させた。慶長16年(1611年)に築城の名手高虎が、上野城を有事の根城として本丸を拡張、高さ約30mの高石垣を廻らせた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、元和元年(1615年)の夏の陣と勝利に終わった家康方が
、諸大名に城の普請を厳しく禁止。その為上野城の天守閣が再建されることはなかった。一国一城制では上野城も伊賀の国の城として認められた。 その後10万石の加増をうけて、32万3千950石余の大藩として明治時代まで城代を置いて存続した。現在の天守閣は昭和10年(1935年)に復元されたものだが、石垣と内堀は高虎が築城した当時のまま。この石垣は黒沢明監督の影武者のロケ地に使われた。今日では忍者屋敷と並ぶ伊賀氏の観光スポットで、連日観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

飛騨三大名瀑のひとつに数えられ、岐阜の観光スポットになっている平湯大滝。幅6m、落差64mの壮大な滝で、緑豊かな自然に抱かれ、四季の美しい景観を堪能できるで、日本の滝100選にも選ばれて、平湯大滝は高山市の奥飛騨温泉郷平湯(旧上宝村)にあり、紅葉の名所で知られ、飛騨・美濃紅葉三十三選にも選ばれている。また厳冬期には滝のほとんどが凍りつき、毎年2月には氷瀑がライトアップされ、平湯大滝結氷まつりが開催される。武田信玄の家臣山県昌景が飛騨攻めの折り、硫黄岳の毒ガスにより疲弊し、平湯大滝付近で動けなくなってしまう。その時、一匹の白猿に導かれ、浸かった温泉で回復した伝説がある。それが平湯温泉であった。それ以来、奥飛騨の温泉で知られるようになり、岐阜の観光名勝になっている。周囲は奥飛騨平湯大滝公園として整備され、観光客に注目されている。

 鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、井の口と呼ばれていた岐阜の稲葉山(金華山)山頂に、鎌倉幕府執事二階堂行政により初めて砦が築かれた。15世紀中頃に、美濃守護代の斉藤利永が修復し居城とした。天文2年(1533年)に井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ城主となるが、その後息子の義龍・龍興の謀反により斎藤道三が死す。永禄10年(1567年)に義父に当たる斎藤道三の敵討ち兼ねて織田信長が稲葉城を攻略し、尾張小牧山城から本拠を移し岐阜城と改めた。現在の城は昭和31年(1956年)に、岐阜城再建期成同盟によって復興された。金華山一帯は、平成23年(2011年)に岐阜城跡として国史跡に指定され、岐阜では長良川の鵜飼いと並ぶ観光名勝になっている。標高329mを誇り、眼下に鵜飼で有名な清流長良川や恵那山、木曽御岳山が雄大な姿眺められる、訪れる観光客には魅了している。金華山の頂上まではロープウエイが運行しており観光客に好評。

 戦国時代末期永禄2年(1559年)、遠藤盛数が砦を築いたのが郡上八幡城始まりだった。その後、天正15年(1587年)の賤ヶ岳の戦で、その子遠藤慶隆が秀吉とに敵対し敗戦したため城主の座を失ったが、家康のとき復帰した。城主は井上氏、金森氏を経て宝暦8年(1758年)以来、丹後の宮津から転封した青山幸道が、城下の殿町に居館を築き、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸、松の丸に改め、四万八千石を領して明治に至った。しかし明治4年(1871年)の廃藩置県とともに城は、石垣を残して翌年から取り壊された。廃城となった後、昭和8年(1933年)に大垣城を模して模擬天守が木造で再建され。木造再建城としては日本最古。現在の城郭一帯の石垣は県の史跡に指定、天守閣は市の有形文化財に指定され、郡上踊りとともに観光の名勝になっており、特に夏場の郡上踊りの見学を兼ねて訪れる観光客も多い、

 室町時代の天分年(1537年)に、織田信長の叔父である織田信康によって創建された犬山城。天守は現存する日本最古の様式で、木曽川の南岸にそそり立つ小高い山に、造られた犬山城は別名白帝城と云われている。尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置するため、戦国時代を通じて国盗りの要所となり、城主はめまぐるしく変わった。信長没後、天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦で、羽柴秀吉が12万人の大軍を率いて入城。小牧山城に陣取る徳川家康と生涯唯一の直接対決をした。江戸時代に入ると、尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、幕末まで続いたが、明治維新による廃藩置県で愛知県所有した。しかし、明治24年(1891年)の濃尾大地震により西面北端の付櫓や城門の一 部が倒壊、その修復を条件に城は再び成瀬家の所有となった。平成16年(2004年)に財団法人に移管するまで日本で唯一個人所有の城だった。今日でも城郭探索を兼ねて観光客が訪れている。愛知県の観光名勝になっている。

 名古屋城といえば織田信長を連想される人も多いが、信長は清須、小牧、岐阜、安土と居城を移した為、役割の薄れた那古野城は天正10年(1582年)頃廃城となり、跡地は雉が多く住む野原となったなった。しかし慶長15年(1610年)、徳川家康が外様大名を動員し、天下統一の最後の布石として築いたのが名古屋城。元和2年(1616年)に家康の九男義直が入城し、それ以来、徳川御三家筆頭、尾張藩61万9千石の牙城となる。勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成し、昭和5年(1930年)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)、米軍の空襲で天守閣などがほとんどの建物を焼失した。昭和34年(1959年)、天守閣が再建されたが、本丸御殿など江戸時代の文献や多くの写真、実測図が残されていた為、在りし日の姿を忠実に蘇らせることが可能だった。西北・西南・東南の各隅櫓と表二ノ門が元の建物が現存していた。本丸を囲む石垣や空堀・外堀などは原形を伝え、二ノ丸庭園も一部だけ残っていた。今日では愛知を代表する観光スポットとなり、全国から観光客が押し寄せている。大型観光バスの駐車場も完備。

 宮川に架かる赤い欄干が目立つ中橋を渡るあたりから、古い町並みになる。ほとんど江戸末期から明治期に建てられた屋敷などで、軒を連ねる景観はまるで前世にタイムスリップしたみたい。高山は元禄5年(1692年)、幕府直轄領となったが破却された。その後、旧城下町は町人地となり、飛騨地方の商業の中心地として栄えた。この当たりは下町の上三之町・上二之町の通りを中心に、東の上一之町、西の片原町、南の神明町4丁目にまたがっている。奈良国立文化財研究所の調査後、昭和54年(1979年)に国の伝統的建造物群保存地区に指定される。出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板の杉玉が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっている。なかでも観光客で賑わう上三之町には、土産店や喫茶店なども多く連日観光目当が押し寄せている。また観光スポットの高山陣屋や朝市も近くある。

 伊東市の南西に位置する海岸で、富士箱根伊豆国立公園に指定され、伊豆には欠かせない観光スポットの城ヶ崎海岸。約4,000年前、大室山の噴火で溶岩が海に流出し、海の侵食作用で削られてできた城ヶ崎海岸。絶壁が連なり、幾重にも深く入り組んだ岩礁が、約9kmも続く溶岩岩石海岸。また門脇灯台を中心にハイキングコースも整備され、なかでもさ48m、高さ23m門脇崎の海の吊り橋は、景観も素晴らしくスリルも満点。門脇岬と半四郎落しの間には海蝕洞にあり、断崖絶壁のスリルを味わうことができる。門脇灯台は昭和35年(1960年)に点灯したが、平成7年(1995年)展望付き灯台に改築され、遠く伊豆七島や天城連山の峰々を望むことができる。新灯台は、地上24.9m、地上17mで収容は30名。地上4mの所に収容人員60名の第2展望台が設置され、訪れる観光客には好評。

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