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観光の四方山話

 天正17年(1589年)、中国地方の覇者・毛利輝元によって太田川のデルタ地帯に築城を開始したのが広島城の始まりで、城下町の整備も進められた。関ヶ原の合戦後は、徳川に味方した福島正則が毛利氏に代わって入城。広島城の充実をさらに進め、西国街道を町人町に引き込むなど城下町の拡充を図った。しかし元和5年(1619年)に、城郭の修築届などの不備を咎められ福島氏は改易。その後和歌山から浅野長晟が城主として入城し、以後浅野氏が12代に渡り城主を勤めた。天守閣は昭和6年(1931年)に国宝に指定され、広島市民のシンボルだったが原爆によって倒壊されたが、昭和33年(1958年)に外観復元。平成元年(1989)年には築城400年を機に内部改装を行ない、現在は武家文化をテーマとした歴史資料館にもなっており、広島を代表する観光スポットで、広島を訪れる観光客には欠かせない存在。大型観光バスの駐車場完備。

 水戸の偕楽園と金沢の兼六園と並び日本三名園に数えられる岡山後楽園。貞亨3年(1686年)備前藩主池田綱政が家臣の津田永忠に命じて、14年もの歳月かけ元禄13年(1700年)に完成。元禄8年(1695年)頃には城の背後にあることから御後園または後園と呼ばれていた。完成後は池田家で使用していたが、明治4年(1871年)に後楽園と改称して一般公開。明治17年(1884年)には県営に移管した。園内は回遊式庭園で、面積は13ha、主要建造物の延養亭や能舞台、池、築山、梅林、茶畑などを配置。後楽園から旭川を隔て南にに位置する岡山城は、豊臣五大老の一人で岡山藩主だった宇喜田秀家が、旭川の流域だった岡山と云う小高い山を利用して築城。今や岡山城と後楽園は切ってもきれない存在でどちらがなくても不自然である。国指定特別名勝で、岡山を代表する観光名勝になっており全国のからの観光客で賑わっている。大型観光バスの駐車場完備

 野口冬人の諸国露天風呂番付で、西の横綱に選ばれた砂湯で知られる湯原温泉。下湯原温泉・足温泉・真賀温泉・郷緑温泉らの五つの温泉を総称して湯原温泉郷と云い、また湯郷温泉・奥津温泉と共に美作三湯と呼ばれている。
湯原温泉の歴史は定かじゃないが、播磨の名刹、書写山圓教会の名僧の性空上人が病で倒れ、その時夢枕に現れた天童が、湯原温泉の湯を暗示したと伝わる。性空はこの地に赴き完治してから、薬湯として知られるようになった。また、豊臣政権の五大老である宇喜田秀家の母堂が病を癒したと云われ、その御礼に秀家が浴室を修繕したという逸話もある。しかし地元歴史研究家によれば、それ以前にたたら製鉄が盛んになり、弥生の中期頃からそこで働く物達の湯治を目的に使われていた。今日では美作方面を訪れた観光客には人気の観光スポットで観光客で賑わっている。

 標高430mの臥牛山は大松山、小松山、天神丸、前山の四つの峰の総称で、延応2年(1240年)に秋庭重信が大松山に砦を築いた。天和3年(1683年)に、松山藩主水谷勝宗が3年の歳月をかけて天守を完成させた。現在の松山城は二層二階の天守、二重櫓、大手門や櫓の礎石、土塀、 高い石垣などが残っている。城はその立地から山城、平山城、平城と分類され、備中松山城は「山城」に分類される。しかし全国に天守が残る城は12城あるが、そのうち現存する天守は12城あり、備中松山城はその一つに数えられている。四国の松山市にも松山城があるが、岡山の高梁市の城を備中松山城と呼び、地元の人はもちろん全国の観光客にも親しまれている。今日では岡山の観光名勝に入っており、観光コースのは欠かせない。平成9年(1997年)に本丸の一部が復元されたが、天守、二重櫓、土塀の一部が国重文。

大山

 中国地方の秀峰・大山は伯耆富士とも呼ばれ、鳥取県では鳥取砂丘と並ぶ観光スポット。標高1,729mの剣が峰は、中国地方の最高峰で、日本百景にも選ばれている。その優雅さをみせる反面、聳り立つ絶壁の荒々しい面もみせている。山頂付近は天然記念物のキャラボクなどが自生しており、高山植物や野鳥の宝庫でもある。登山はもちろん、春の山菜狩り、夏のキャンプ、秋の紅葉、冬のスキーと、四季折々の魅力が楽しめる。 大山は昭和11年1(936年)に、日本で3番目の国立公園となり、昭和38年(1963年)に蒜山地域、隠岐島、島根半島、三瓶山地域が追加指定され現在の大山隠岐国立公園となった。現存する大山の最古の記述は出雲国風土記の国引き神話では、三瓶山と協力し縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたと記述されている。今日では鳥取の観光には欠かせない存在で、観光客の根強い人気が博している。

 尾張で生まれた堀尾吉晴は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三代に仕える。姉川や長篠の合戦・備中高松城水攻め・山崎の合戦で活躍を認められ、遠江浜松12万石を拝領、後に嫡子忠氏に譲る。慶長5年(の1600年)関ヶ原の戦いの後、戦勝した徳川方家臣の命により堀尾吉晴、堀尾忠氏親子が24万石で出雲・隠岐の太守となる。慶長16年(1611年)に堀尾吉晴が六基の櫓が備わる松江城を完成させた。堀尾氏三代につづき,京極忠高が入城したが嗣子なく断絶。のち松平直政が入封,松平氏が明治まで続いていた。現存する天守閣では,姫路城,松本城、松江城だけが五層の天守閣をもっており、千鳥城とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。城跡は国の史跡に指定され、日本さくら名所100選や都市景観100選にも選ばれており、島根を代表する観光スポットで連日観光客で賑わっている。大型観光バスの駐車場完備。

 平安時代大同2年(807年)に銀が採掘された。永禄10年(1567年)に、自然銀が多く含有する日本最大の鉱脈を発見。その後、織田信長・豊臣秀吉の直轄時代を経て、慶長5年(1600年)に徳川家康は但馬銀山奉行を配置し、佐渡金山、岩見銀山並び天領として管理し、徳川幕府の財政を支えた。明治元年(1868年)には官営鉱山となった。明治政府は近代化を推し進めるため、フランス人技師ジャン・フ ランソワ・コワニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、コワニエが帰国するまでの10年の間に製鉱所を建設し、日本の近代化鉱業の模範鉱山製鉱所の確立を目指した。明治22年(1889年)に生野鉱山と佐渡金山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となった。明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973年)に閉山。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達し、採掘した鉱石は70種にも及んでいる。


 初代天皇と伝えられる神武天皇が、橿原宮で即位したと場所とされている、日本書紀に基づき明治23年(1890年)に、民間有志の橿原神宮創建に対する請願に感銘を受けた明治天皇が官弊大社として建立した。ただし同じ場所かは定かではないが、本殿を京都御所の賢所を移築し、橿原市を代表する橿原神宮で、本殿と神楽殿を訪ねる参拝客や観光客が多く見られる。昭和15年(1940年)には昭和天皇が同神社に奉公し、秋には日本各地で紀元2,600年奉祝式典が挙行され、この年の参拝者数は約1,000万人に超えた。畝傍山の南東麓、約50万平方メートルもの広大な神域に建てられた檜皮葺きで素木造りの本殿と神楽殿が、玉砂利の参道と深い森の緑と調和して、厳かな雰囲気を醸し出している。本殿と文華殿は重要文化財に指定で橿原市を代表する観光スポット。大型観光バスの駐車場も完備。

 奈良県斑鳩町にある聖徳宗の総本山で、斑鳩寺とも呼ばれている。その歴史は古く、創建は金堂薬師如来像光背銘や上宮聖徳法王帝説から、推古15年(607年)に聖徳太子仁が建立したと推測されている。古代寺院の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として知られている。飛鳥時代をはじめ夫々の時代の貴重な建造物や宝物類が、広大なる境内の中で存在している。西院には金堂や五重塔が中心で、東院には夢殿を中心としている。境内の広さは約約18万7千平方mを誇り、昭和58年(1993年)に世界遺産に登録され、観光都市奈良を代表す観光スポットとして全国から観光客で賑わっている。建造物以外でも、飛鳥や奈良時代の仏像や仏教工芸品など多数の文化財を収容している。

 東山三十六峰を望む山腹に位置し、一年を通じて鈴虫の音色を楽しめるため鈴虫寺とも呼ばれ、若い観光客に人気のスポット。この寺の歴史は古く、享保8年(1723年)に鳳潭上人によって開かれ、現在は臨済宗に属する禅寺。鈴虫は八代目住職台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、今日では年間5万匹を育ているため一年を通して鈴虫の音が楽しめる。鈴虫は6月上旬に孵化し、2カ月の幼虫期間を経て成虫になります。サナギにならず、幼虫の姿のまま成虫になる不完全変態の昆虫。成虫になると2カ月の繁殖期間で交尾と産卵を行い、オスは10月下旬には短い一生を終えるが、メスはその後も旺盛な食欲で生き抜いて産卵にそなている。また、どんな願い事も一つ叶えてもらえるという草鞋を履いた幸福地蔵も有名で、参拝者にはお茶・菓子が付きそして僧侶による簡単な説法も聞ける。全国から観光客が観光をかねて立ち寄っている。

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