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観光の四方山話

 万治元年(1658年)、19代当主の島津光久によって築かれた別邸で別名・磯庭園とも呼ばれ、錦江湾や桜島を庭園の景観に取り入れた自然と人工とが調和した借景式庭園。その後も歴代当主によって改築が重ねられられ、幕末の名君28代当主の島津斉彬がこよなく愛し、この敷地にヨーロッパ製鉄所やガラス工場を建設するなど近代化事業(集成館事業)を起こした。また幕末から近代にかけて薩摩藩・鹿児島県の迎賓館のような存在で、幕末にはオランダ海軍将校や幕臣勝海舟、イギリス公使パークスが訪れている。明治以降になると大正天皇、昭和天皇をはじめとする皇族やロシアの皇太子ニコライ2世、イギリスの皇太子エドワード7世など国内外の数多くの要人が訪れている。 昭和33年(1958年)に国の名勝に指定され、鹿児島には欠かせない観光スポットで、連日観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 第二次世界大戦末期の沖縄戦で、爆弾を装着した飛行機で敵の艦船に体当たりをし、お国のためと思い短い生涯を終えた若者たちが大勢いた。人類史上類のない特攻作戦を敢行した陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を、展示しているのが知覧特攻平和会館。このような悲劇を生み出した戦争を二度と起こしてはならないという戒めのために、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力ももとで紹介している。館内には写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などの他、四式戦闘機の疾風や三式戦闘機の実物なども展示。昭和30年(1955年)には特攻隊員の顕彰と世界平和を目的に観音像が安置された。知覧町はお茶畑でも知られ、観光で訪れて人が立ち寄って行く観光客も多い。大型観光バスの駐車場も完備。

 鹿児島県屋久島に自生する縄文杉。九州の最高峰でもある宮之浦岳を擁し、洋上アルプスとも称される屋久島。またスギの自然分布で南限とされるこの島に、屋久杉が分布している。幹回りは16m余り、高さは25m余り、樹齢推定7,200年以上は最大で最古の巨木、年間1万人以上の観光客が訪れている。縄文杉と呼ばれる名前の由来は、昭和41年(1966年)に屋久島役場の観光課長だった岩川貞次氏により発見され広く紹介された。発見当初は大岩杉と呼ばれていたが、縄文時代から生きていたと云う説と、幹の造形が縄文土器に似ているからと云う説があるため、いつの日から縄文杉と呼ばれるようになった。平成5年(1993年)に世界遺産に登録され、観光客も一段と多く訪れており、屋久島の観光スポットになっている。

 鵜戸神宮は海幸と山幸の山幸彦の息子、神武天皇の父・鵜葦草葦不合命を祀る神社で、日向灘を見下ろす断崖絶壁の中腹に位置し、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟内に本殿が鎮座する鵜戸神社。参拝者は崖にそって作られた石段を降りて参拝する、神社としては珍しい下り宮である。国定公園日南海岸、日南市鵜戸山の日向灘に面し、奇岩怪礁は南北約1.5kmにおよび分布日本一の規模を誇る。地元では鵜戸さんの愛称され、安産、夫婦円満、育児、漁業、航海そして縁結びの神として古くから信仰を集め、念流陰流 剣法発祥の地としても知られている。観光県宮崎を代表する観光スポットで、県内外から大勢の観光客で賑わいを見せている。目の前に広がる紺碧の海とのコントラストの素晴しい景観は訪れる観光客を魅了している。

 飫肥城は藤原氏南家の子孫で、800年余りも続いた由緒ある伊東家が、天正16年(1588年)に豊臣秀吉の命により、義祐の子・祐兵が伊東家の5万1千石の初代藩主となり、飫肥城下の建設に取りかかり、明治4年(1871年)の廃藩になるまで伊東家がこの地を治めた。戦国時代は飫肥城の覇権をめぐって伊東家と島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、80年も合戦が続いた。飫肥城下は四方を山に囲まれた小盆地に位置し、酒谷川が城下町の東、南、西を蛇行して取り巻き、外堀の役割を果たしていた。取り壊された大手門は昭和53年(1978年)に樹齢100年の飫肥杉を使用して復元した。飫肥城の玄関として勇壮を誇っています。復元工事中 に正徳3年(1713年)の碑文が発見されて、大手門内側に保存され、宮崎県日南市の観光名勝として全国から観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 阿蘇山と南外輪山に抱かれた南阿蘇村白水地区は、いたる所から水が湧き出て、熊本市街地の中央を流れやがて有明海へと流れる白川。その源流が吉見神社境内にあり、全湧水中最大規模の白川水源。日量は約9万屯で、年間を通じて水温は14度を保ち、冬は暖かく夏は冷たい。また透明度が高く、大量の水が池底の砂を舞い上がらせて湧出する様を近くで見る事ができる。最初に大規模な河川改修を行ったのは加藤清正だった。肥後の藩主になったから自ら船に乗り、何度も白川を往復して検分したと伝えられ、流域全体に様々な治水対策が行われ、一部は現在も生かされている。日本の名水百選に選ばれており、熊本の観光名勝のひとつで、県内外から観光客が訪れている。

 臼杵市の南西部に点在する臼杵石仏(磨崖仏)は、古園石仏大日如来像や60余りにおよんでいるが、磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。地元に伝わる真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)には、用明天皇が登場しているので6世後半が舞台と考えられるが、この伝説では長者亡くなった娘の菩提を弔うために磨崖仏を彫らせたという。しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定される。その規模と数量においても彫刻の質の高さでも、わが国を代表する石仏群で、群に分かれ地名によって、ホキ石仏第1群(堂ヶ迫石仏)、同第2群、山王山石仏、古園石仏と名づけられ、平成7年(1995年)に磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定され、大分県の欠かせない観光スポットで。県内外から観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 松浦氏の居城で別名亀岡城と呼ばれていた。平戸市街の東部に位置し、平戸港を見下ろす絶好の立地条件を誇る。松浦氏は始祖を嵯峨天皇の皇子源融(とほる)とし、嘉禄元年(1225年)頃に平戸港北側に御館山城を築き、松浦氏は正平7年(1352年)に白狐山城、慶長4年(1599年)と変遷をくり返しながら、平戸港周辺の勢カを拡張し、豊臣秀吉から領知の承認を得た。しかしその後、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは、積極的な動向を表わさなかった為、徳川政権に豊臣派として疑われ、慶長18年(1613年)に築城した岳城を焼却し、恭順の意を表した。焼失した日の岳城に替る居館として、元和6年(1620年)頃に平戸港の北側の御館山城跡の下方に御館を建設した。その約90年後の第5代藩主松浦棟になって、亀岡に平戸城の再築を幕府に願い出て、宝永元年(1704年)に着手し享保3年(1718年)に完成。本丸、二の丸、三の丸、白浜廓、外廓からなる。現在の各櫓は昭和37年(1962年に復元したもので、平戸一の観光名勝で全国から観光客がお訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 佐賀県唐津湾沿いに、虹の弧のように連なる松原。17世紀のはじめ、唐津藩初代藩主の寺沢志摩守広高が、防風・防潮林を目的とした植林をしたのが始まり。長さ4.5km、幅400m~700におよび、松の数は約100万本。幕藩時代には、二里の松原とか御松原と呼ばれていたが明治30年代頃から虹の松原と呼ばれるようになった。現在では松原の中央を国道202号線通っており、観光名勝として全国から多くの観光客が訪れ、松の枝で造られた自然のトンネルが多くの人に感動を与えている。昭和30年に特別名勝に指定され、昭和58年(1983年)には日本の自然百選と日本の名勝百選となり、昭和62年(1987年)には日本の道百選にも選ばれている。今日では、三保の松原、気比の松原とともに日本三大松原の一つに数えられ、国の特別名勝に指定されており、佐賀県には欠かせない観光ルートのひとつ。大型観光バスの駐車場完備。

 スコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが、南山手の丘に住宅を建設したのは文久年(1863年)だった。大浦天主堂の横、長崎港を望む小高い丘の外国人居留地跡の広さ3万3000㎡の園内に、国指定重要文化財の旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅など9棟の明治の洋館を移築復元した施設。石畳の回遊道路がめぐらされ、異国情緒あふれる観光名所になっている。裏手には馬小屋や貯蔵庫なども残っており、三菱重工業 長崎造船所を見下ろす位置にあったため昭和14年(1939年)に戦艦武蔵の建造を秘匿の目的で買収され、所有が三菱重工業へと移った。昭和32年(1957年)には同造船所の創業100周年を記念して長崎市へ寄贈された。昭和36年(1961年)に主屋・付属屋が国の重要文化財にに指定された。長崎くんちの資料を展示した長崎伝統芸能館や,歌劇・蝶々夫人を演じた三浦環像もあり、我が国を代表する観光スポットで連日観光客が訪れている。

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