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観光の四方山話

青池

 青森県側の白神山地西麓に位置し、ブナの森の中に点在する大小33の湖沼群が十二湖。その中でも特に人気の湖が青池。まるで青いインクを流し込んだような池で、何故、青いのか未だ解明されておらず神秘の池としても知られている。また陽が射込む程、その姿は美しく訪れた観光客を魅了している。江戸時代に発生した大地震により、山崩れでき形成されたと云われ、33の湖沼は崩山から眺めると12の湖沼が見えたことから、十二湖と呼ばれるようになった。アメリカのグランドキャニオンを思わせることから、日本キャニオンと呼ばれ、緑の木々の間に見える岩肌は圧巻。十二湖駅からは無料送迎バスが出ており、観光客には好評。青森県の隠れて観光スポット。

 琉球王朝の王城で、14世紀末より琉球王朝時代の政治文化の中心として、貿易で繁栄した。その規模は沖縄県最大だったが、戦前は正殿などが国宝指定されていたが、昭和20年(1945年)の沖縄決戦や琉球大学の建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の一部が残ったいる。昭和55年(1980年)に琉球大学の移転に伴い、本格的な復元が行われ、平成4年(1992年)に正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。平成11年(1999年)にはNHK大河ドラマ琉球の風の舞台になった。平成12年(2000年)には、琉球王国のグスク及び関連道産群として世界遺産に登録され、沖縄を代表する観光地で多くの観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 弟子屈町の自然湖で、阿寒国立公園に属している屈斜路湖は道東観光には欠かせない存在。火山性の陥没によりできたカルデラ湖で、周囲約57km、面積79.3km、最深部は約125mもあり、カルデラ湖としては日本最大、世界でも第2位の規模を誇る。川湯温泉からは2.1kmに位置し、初期の屈斜路湖は面積が現在の倍ほどあり、ほぼ円形の湖だったと考えられるが、3万年前から後カルデラ火山の後サヌプリ(別名硫黄山)をはじめとする溶岩円頂丘群が噴出し、南東部を失い、空豆状の現在の形になった。湖心に浮かぶ中島は自体二重式火山で、淡水湖内では日本一大きい島で、周囲12km、面積5.7㎢もある。湖を望む3つの峠に立ち、眼下に広がる雄大な原生林に囲まれた湖を見下ろす光景は、訪れた観光客を魅了している。昭和50年代には、クッシーと名付けられた巨大な未知の生物が棲んでいるという、噂がテレビなどで取り上げられ、大勢の観光客で賑わった。

 昭和18年(1943年)、突然自信と共に麦畑が隆起してできたのが昭和新山。4ヶ月にもおよぶ爆発、刻々と隆起する大地、地球のエネルギーは地底で固まった、粘性の強いデイサイト溶岩を押し上げ、402mのベロニーテ型火山を出現させた。当時は戦争中のため、食料もなくフィルムや紙、衣類にも事欠く中で、研究する学者は誰一人といないないなか、噴火の初めから終りまで記録した男がいた。郵便局長の三松正夫さんだった。寝食を忘れ、創意工夫を重ねて、活動の一部始終を記録した。昭和21年)1946年)には、私財を投げ打って土地を買い取った。昭和23年(1948年)、オスローで開かれた万国火山会議に提出された資料はミマツダイヤグラムと名ずけられ、多くの専門家に絶賛された。今日では対面する有珠山とともに北海道の観光地として注目され、多くの観光客が訪れており、北海道旅行には欠かせない観光スポットである。

 支笏洞爺国立公園に属するカルデラ湖で、我が国最北の不凍湖が支笏湖。しかし低温が続いた時には結氷するころもあり、平成13年(2001年)には結氷した。湖の周囲は約40km、最大水深363m、平均水深265mを誇り、国内では秋田県の田沢湖に次いで、日本で2番目の深度である。その起源は、4万年ほど前に形成された支笏カルデラに水が溜まった者と考えられる。形成した当初の形状は円形だったが、カルデラの近くの恵庭岳や風不死岳の噴火で、現在のようなくびれて形になった。今では北海道を代表する観光地で、連日観光客が訪れている。北海道三大秘湖の一つオコタンペ湖や苔の洞門などが点在し、観光スポットも目白押し。

 千歳市西部、支笏湖の北西約7kmに位置し、支笏洞爺国立公園の特別保護地区(自然公園法)に指定されている、小さな湖がオコタンペ湖。恵庭岳の火山噴出物によりできた堰止湖で、周囲約5km,最大水深20.5m、また阿寒湖近くのオンネトーや然別湖近くの東雲湖と並び、北海道3大秘湖と称される神秘の湖で、周囲5km、最大深度21.1m。天候によっては、湖水の色がエメラルドグリーンやコバルトブルーなどに変化して見える。支笏湖に注ぐオコタンペ川は、長さ約3.5kmで標高差300m以上を下る急流である。湖の周辺地域は森林法に基づき立ち入り禁止となっているため、展望台からの観覧となり、静かな観光ブームとなっており、一部の観光客に人気の観光スポットである。

 マリモの生息で知られる阿寒湖。そのマリモの発見は古くから知られ、大正10年(1921年)には国の天然記念物に指定され、阿寒湖の名前がさらに広まった。昭和9年(1934年)には、大雪山国立公園や日光国立公園とともに日本で2番目に国立公園に指定された。太古の昔、激しい火山活動によって広大なカルデラが形成されるが、特に阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖の3つのカルデラをカバーする総面積9万ha以上の地域がが指定の対象となった。阿寒湖は道東を代表する観光地で、面積は13.28㎢、周囲30km、最大水深45m。周囲には雌阿寒岳、雄阿寒岳、阿寒富士などの秀峰が聳え、さらに阿寒湖の南西には小さな宝石のようなオンネトーもある。阿寒湖の存在は、幕末の頃から知られ、探検家の松浦武四郎が著した東西蝦夷山川地理取調日誌が安政5年(1858年)に、久摺日誌文久では(1861年)によってその景勝美ぶりが記載されている。道東の観光ルートには欠かせなく、大型観光バスで大勢の観光客が訪れている。

 約1万年前、笠山が噴火してできた爆裂火口の跡でその規模は12haにもおよぶ。登別温泉の北東に位置し、長径約450mの爆裂火口跡から、無数の噴気孔から水蒸気が噴き出る様が、地獄谷と呼ばれている由来。今も噴気孔から硫黄やガスを噴き出し、白い煙を上げ熱湯がグダグダと湧き出ており、毎分3000リッタルもの湯量は、登別温泉で使用する温泉の約4分の3はこの地獄谷で賄っている。地獄谷に一歩足を踏み入れると硫黄の香りがたちこめ、奥まで歩くと湯煙で辺りが見えないほど。一周すると約10分の遊歩道があり、地獄谷展望台に登ると、火山ガスや熱湯を噴出す様を見られ、まさに地獄巡りができる。また登別温泉は古くから北海道を代表する観光地で、毎年全国から観光客が訪れている。大型観光バスの駐車場完備。

 札幌を代表する温泉で、札幌の奥座敷とも呼ばれている。この温泉は古くからアイヌに知られており、江戸時代には松浦武四郎が旅行中に、川に湧く温泉に入ったと記している。また慶応2年(1866年)に、小樽でこ温泉を知った僧の美泉定山が、小さな小屋を建て温泉宿としたのが、定山渓の名前に由来すると云われている。大正7年(1918年)には、札幌市街地から定山渓鉄道線が開通しより発展した。定山渓温泉の利用客は、戦時中と戦争直後に激減した。戦後、鹿の湯ホテルを接収した進駐軍は、昭和22年(1947年)に建物を不審火で全焼させて去った。札幌市の戦後の急成長に伴い温泉街も回復し、札幌を代表する観光スポットで全国から大勢の観光客が訪れている。

 昭和20年(1945年)、玉城村に米軍の艦砲射撃が始まり、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名が、看護要員として南風原陸軍病院の勤務についた。戦闘が激しくなり前線から運ばれる負傷兵が激増し、病院の壕はたちまち超満員となった。その年の5月に日本軍の撤退が始まり、第三外科は現在のひめゆりの塔の壕の中だった。米軍が間近に迫った6月18日、戦局が絶望的になり学徒隊は解散を命じられた。しかし既に沖縄のほぼ全域を米軍が支配し、周辺も既に激しい砲撃に晒されていた。地下壕から出ることは死を意味していたが、そこに黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名のうち87名が死亡。戦後、二人の娘の行方を捜して金城和信夫妻によて、第三外科壕が探し当てられた。真和志村民の協力により、昭和20年に最初のひめゆりの塔が建ち、次第に整備されていった。第一高等女学校の職員や生徒名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこった御霊み心をうけ、平和の原点としたのが、ひめゆりの塔だた。今日では沖縄を観光で訪れて観光客に強烈な印象を与え、二度とこんな悲惨な戦争をしてはならないと戒めている。大型観光バスの駐車場完備。

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